はじめに
先日、スクラムフェス三河に参加する中で、人と人との「さまざまな関係性」について深く考える機会がありました。
そこで体験したことは、深い対話だったり、純粋な相手への興味があったり、なんとなく心に感じ入るような瞬間がありました。
今までのスクラムフェスとは違って、豊かで手触りのある質感を持っているように思えました。
そうした深い対話があったからかもしれません。
ふとした瞬間に場の中に立ち現れる「ランク」や「投影」の存在を感じて、それについて言語化する必要があると感じました。
「ランク」と「投影」
プロセスワークでは「ランク」という言葉があります。
その時々に立ち現れる、その人特有の影響力のことです。
具体的には以下のようなものです。
- 主催者がその場を仕切る
- 登壇者が言っているプラクティスが正しいように見える
- ベテランのスクラムマスターが言っていることは尊い
ランクとは、「その場にある」ものであり、心地よい影響を与えるものがあれば、居心地の悪い影響を与えるものもあります。
私は今回のスクラムフェス三河のなかで、ランクに対するアウェアネスを感じました。※スクフェス三河が特別なのではなく、たまたま出会う機会が今回だったというだけです。
ランクを扱う上で、もう一つ、「投影」という概念も紹介します。
これは、自分が意識的、無意識的に持っている「理想」や「自身の可能性」を他者に投影し、そこに反応してしまうことです。
「あの人はすごい」、「あんな風になれなくて悔しい」という言葉がありました。
私も投影の当事者になっていることを感じました。
- 「やまずんさんみたいな立派なQAは」
- 「いっぱい登壇していてすごい」
私たちは普段、会社や社会の中で、多かれ少なかれ「値付け」をされて生きていると感じます。
スキル、役職、成果、これにはただ単にコミュニティで目立っていることや、ブログに嘘をたくさん書いていることも含まれるかもしれないですね。
そうしたラベルのもと、経済合理性のなかで人生の時間とエネルギーを消費しているのが我々の持ち場であり、現場であると考えています。
たしかに、参加者の中には圧倒的な実績を持つ人や、深い知識を持つ人はいますよね。
でも、その「すごさ」に圧倒されて自分を卑下したり、相手に勝手な理想を「投影」してしまったりすると、途端に息苦しさが生まれるように思えます。
「すごい専門家」という記号として「客体化」して接してしまうことは、「すごい専門家」その人にもランクを生じさせると考えています。
そのすごい人は人間ですか?相手を一人の人間として接しているのでしょうか。
誰のこともすごいとおもっていない
そういった話をスクラムフェス三河の二日間でたくさん聞いて、二日目の深夜に問われたとき、私はこう言っていました。
「私は誰のこともすごいと思っていない」
心からそうです。
正直、怖い人や危害を加えてくると思う人はいます。
きょんさんとnacoさんのことじゃないよ:https://yy-world.hatenadiary.com/entry/2025/12/02/120000
でも、それはその人がすごいからではありません。
新卒の人でも、ベテランの人でも、スクラムギャザリング東京の偉い人でも、おおひらさんでも、私はすごい/すごくないの軸で接し方も受け取り方も変えていないと感じました。
私は、その人との固有の関係性で尊敬する人を尊敬しています。
固有の関係性がなかったとしても、私は、少なくともスクラムフェスという場において、同じ場所で同じ時間を共有しているという点では全員同じだと感じていました。
それぞれに専門性があるし、懸命に生きている場所があります。
私は、少なくともスクラムフェス三河という場において、そこにラベリングに基づく値付けをしたくないと願っていることに気づいたのでした。
そもそも我々は「ギャザリング」だ
ランクや投影、権威が大事にされることも、社会にとって意味があることを私は知っています。
スクラムフェスはどうでしょうか。私は、スクラムフェスを「ギャザリング」だと捉えていました。
私たちはロールや背景を持ちながらも、時に離れて、一人一人の人間としてただそこに集まっているという意味しか見出していません。
そしてその意味だけで尊いと思っています。
ちょっと、意味を探すのをやめてもよいかと思っています。
ただそこにあるだけで理由があるという質感を今後も大切にしていきたいと思ったのでした。